不登校は「甘え」なのか? それとも身体からのSOSか

■ 副住職との対話から

今日、近所のお寺の副住職とお話をしました。
話題は「不登校の子どもたち」のことでした。

私が、「今の時代、中学生でも学校に行けなくなっている子が増えている」と伝えると、副住職は驚いた様子でした。
「自分が中学生の頃は、行かないという選択肢なんてなかった。学校は“行くもの”だった」と。

確かに、昔は“行かない自由”など考えられなかった時代でした。
しかし、今は多様性が認められ、学校側も社会も「それでいいじゃないか」という受け入れの姿勢が広がっています。

副住職は続けて、
「もしこれが日本ではなく、北朝鮮のような国だったらどうだろう?」
と問いかけられました。
国の方針が絶対の社会なら、不登校という現象はあり得ないでしょう。
私もその言葉に、ハッとさせられました。


■ 「甘え」なのか、それとも「SOS」なのか

副住職は、こうも言われました。
「もちろん、身体が動かないという事情もあるかもしれない。
 でも、どこかに“甘え”があるんじゃないか」と。

その言葉を聞いて、私は静かにこう思いました。
——それは甘えではなく、“脳と身体が限界を訴えている状態”ではないかと。

「行きたいけど、体が動かない」
「理由もわからないけど涙が出る」
そんな声を、私はこれまで何度も耳にしてきました。

外から見れば「怠けている」ように見えても、
内側では、脳が「これ以上は危険だ」とブレーキをかけている。
つまり、身体のほうが先に“無理”を訴えているのです。


■ 昔と今の社会の違い

昔は「我慢して行く」ことが当たり前でした。
その代わりに、感情を押し殺すことも多く、
「行かない自由」よりも「合わせる義務」のほうが強かった時代です。

今は、その反動のように、
“自分の内側の声”を聞く子が増えています。
これは人間社会全体が、外側のルールから“内面の気づき”へと
進化している過程なのかもしれません。


■ 「不登校がない国」は本当に幸せか

副住職が例に出された北朝鮮のような社会では、
確かに「不登校」は存在しないかもしれません。
でもそのかわり、心の不調・暴力・依存など、
別の形で“行き場のないエネルギー”が噴き出すでしょう。

強制と恐怖で秩序を保っても、
人の心と身体は、どこかでバランスを崩します。
表に出ないだけで、不調は必ずどこかに現れます。


■ 私たち大人ができること

不登校の子どもたちは、“弱い”のではありません。
むしろ、“敏感で、真面目で、優しすぎる”子が多いのです。
身体が動かなくなるほど、心が張りつめている。

だからこそ、
「行かせる」よりも、「なぜ止まっているのか」を一緒に見つめること。
それが本当のサポートではないかと思います。

「不登校は甘えではない。身体が出している大切なサインなんです」
私は、そうお伝えしたいです。


■ まとめ

不登校は、社会の変化を映す“鏡”でもあります。
競争や我慢ではなく、
「心と身体の声を聴く生き方」に社会が少しずつ移り変わっている証拠かもしれません。

止まることも、学びの一部。
今を生きる子どもたちは、そのことを私たち大人に教えてくれているのだと思います。

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