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長女が泣きながらかけてきた電話で学んだこと

先日、長女が泣きながら電話をしてきた。長女は昨年結婚し、ご主人と関西で二人暮らしをしている。電話の内容はご主人との思い違いに悩んでのことである。

私は長女の味方ではない。なのでご主人の立場と長女の立場も考えながら、中立的に冷静に聴いていた。よく聴いているとあることに気づく。なぜ人は、自分のこと、他人のこと、さらには人生の目的や、生きることの意味まであれこれと「判断」したがるのか?長女だけではない。自分もよくやっている。

一つは、判断すること自体が「気持ちいい」ことが理由なのではないか。良し悪しや、正しい、間違っているといった判断は、それだけでわかった気になれる。結論が出せた気がして、安心できているのではないか。

もう一つの理由は「判断することで認められた気分になれる」からかもしれない。例えばケンカした後に、「あの人はここが間違っている」、「彼があんなことをしたから、こうなったのだ」と振り返ることがある。今回のように家族に電話してきたのは、まさにそれ。家族や友達に電話して事情を説明し、「それはおかしいよね。あなたは間違っていない」と第三者のお墨付きを得ようとしたのだと思う。「やっぱり私が正しいのだ」と承認欲を満たせる判断を求めているのだろう。ということは、「判断すること」はわかった気になれる気持ちよさと、自分は正しいと思える快楽があるのではなかろうか。

しかし、この快楽は一時的ではないだろうか。常に「相手はこうでなければ」という期待や要求をしているので、しばらく時間が経つとまた苦しむような気がする。仏教の教えでこう聞いたことがある。人が苦しみを感じる時、その心には必ず「執着」がある。その「執着」を手放さなければ、自分も相手も苦しみ続けてしまう。仕事や生活や将来の選択など必要な判断はある。「決める」ことで、心の見通しが良くなることもある。しかし、どんな判断であれ、「執着」してしまうと苦しみが生まれる。現実はつねに「無常」(変わりゆくもの)だからだ。

そして判断は頭の中にしか存在しない。だから妄想である。驚くかもしれないがそれが真実。判断は妄想に過ぎなかったと気づければよい。そのように仏教の教えで聞いた。

長女の件を通して、またこの話を思い出した。長女のおかげである。

判断しながら執着することをやめてみる。執着することは苦しみ続ける。どうやったら苦しみ、すなわち執着から自由になれるのか。まだまだ学ぶことがある。それを人生の目標にしてみよう。

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