「先生」と呼ばれる人が忘れてはいけないこと

昨日は、お寺の行事の準備をお手伝いさせていただいた。
2月14日は、お釈迦さまが亡くなられた日。
そのため、広島西部地区の住職や関係者が多く集まる法要が行われるとのことで、私は関係者でも仏教界の人間でもないが、人手としてお手伝いに入った。
大きな仏壇の前では、しきたりに従って配膳や書き物が整えられていく。
一つ一つに意味があるのだろうなと思いながら、言われるがままに配置していった。
準備が一段落し、台所で休憩をさせてもらった時のこと。
そこには、一人の年配の女性がいた。
檀家さんのようで、お茶出しの準備をしている。
何人来るのか。
いつ出すのか。
誰から指示を受けたわけでもない様子だったが、長年の経験なのだろう。
戸惑いながらも、想像しながらテキパキと動いていた。
お茶出しも立派な仕事だ。
忙しい中で、場を支える大切な役割である。
そこへ年配の僧侶が入ってきた。
「お茶を一杯いただけまいか」
女性は何も言わず、すぐに準備した。
すでにお茶出しを済ませていたのに、また新しく淹れ直す。
すると僧侶は言った。
「もっと濃い味が好みだ」
女性は一言も不満を口にせず、
「入れ直しましょう」と静かに言い、茶葉を足して再び淹れ直した。
その後も、
「お茶が足りない」
「湯呑みが黄ばんでいる」
「お盆を片付けてほしい」
と、次々に注文が続く。
女性は台所の配置も分からない中で、ただ黙々と動いていた。
そして僧侶は、自分が式典の原稿を作るのに苦労した話を語り続けていた。
漢文を書くのがいかに大変だったかという話だった。
その光景を見ながら、私は不思議な気持ちになった。
人の道を説くことが仕事の僧侶。
その僧侶が、目の前で働いている人への配慮を欠いているように見えた。
僧侶の世界の中では、それが当たり前なのかもしれない。
だが、外の世界から見た私は、どこか滑稽に感じてしまった。
そして、はっとした。
私は整体師として、時々「先生」と呼ばれる。
むしろ、しょっちゅう呼ばれている。
しかし今日の場面を見て、強く思った。
「先生」と呼ばれることは、特別な立場になったという意味ではない。
むしろ、勘違いしてはいけないという警鐘なのだ。
人を支える仕事に就いている者ほど、
目の前の人への敬意を忘れてはいけない。
そんなことを、静かに教えられた一日だった。
