「仏は自分の中にいる」——60代女性とのセッションから気づいたこと

昨日は60代の女性とセッションをしました。
腰痛や首の痛み、肩の痛みなど、全身が強い緊張状態にあり、日常生活にも支障が出ている方です。
これまでのお話を伺うと、ただの「ストレス」ではなく、長い年月にわたり過重ともいえる精神的負担を抱え、耐え、我慢し続けてこられたようです。
その積み重ねが、いま身体の痛みやこわばりとなって現れている。まさにその典型的なケースでした。
「異常なし」と言われても、つらい
現在は、以前より環境も人間関係も落ち着き、過度なストレスは減っているとのこと。
しかし、身体はボロボロのように疲れきっており、病院の検査では「異常なし」と言われても、つらさは消えません。
「何が何だかわからない」というその言葉には、これまで耐え抜いてきた人生の重みが滲んでいました。
それでも、今は少しずつ、うちでじっくりと回復に取り組んでくださっています。
「自分に当てはまると思った」と言われて
昨日、その方がふとこんなことを話してくださいました。
「先生のFacebookの記事を読んで、自分に当てはまると思いました」
私が投稿していたのは、脳の使い方や思考のクセ、そして意識レベルについて書いたものです。
こうして実際に読んでくださり、共感の言葉をいただけることは、整体師としてこの上なく嬉しい瞬間です。
整体師冥利に尽きます。本当にありがとうございます。
古くから伝わる“真理”に触れる
彼女は、毎朝、ある経典を読み、人生の学びを続けていらっしゃる方でした。
そのため、私の投稿に書いていた内容にも深く理解を示してくださいました。
思考のクセや意識レベルの話。これは決して新しい考え方ではありません。
私自身、読書会で読んでいる『7つの鍵』(洋書)や、先日観た映画『禅 ZEN』、歴史書、道徳書、成功者たちの言葉…
どの分野を見ても、根底に流れる教えは同じだと感じます。
私が書いていることは「新しい理論」ではなく、
むしろ、昔から語り継がれてきた真理を、いま改めて気づかせてもらっているだけなのだと思うのです。
「仏は自分の中にいる」
禅の言葉に、「仏は自分の中にいる」とあります。
それなのに、なぜ自分の中の仏が見えないのか?
——それは、「あれが欲しい」「これができないのは〇〇のせいだ」「あれが嫌、これが嫌」といった
欲望や執着が、仏を見えなくしているからだといいます。
かつての私は、不安・恐怖・プライド・怒りといった感情のすべてを、他人や環境のせいにしていました。
でも、すべての原因は“外”ではなく“内”にある。
そう気づいてから、物事の見え方が大きく変わりました。
「自己責任=自分を責めること」ではない
「全ては自己の責任」と言うと、自分を責めてしまう方がいます。
「自分はダメだ」「できていない」「弱い」と。
でも、そうではありません。
人はそれぞれ違って当たり前。
できないところも、弱い部分も含めて「自分」なのです。
どんなに練習しても、大谷翔平選手にはなれません。
しかし、自分の花を咲かせることは誰にでもできます。
おわりに
60代の女性とのセッションを通して、私自身があらためて感じたこと。
それは、「心と身体を整える」ことは、外側を変えることではなく、
自分の内側にある“仏”に気づくことから始まるということです。
乱文・長文になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。