昨日のブログ記事では悩みや苦しみの原因は何だろう?というタイトルで書いた。本日はその続きである。
悩みや苦しみの原因は「執着」すること。そして執着を手放さない心であることであった。なぜ手放せないのか?それは心が反応してしまっているからという話だった。腹を立てる。うまくいかない現実に焦る。他人の目を感じる。自分を疑う。自分に不安を感じる。それらが心の反応だった。そして、悩みや苦しみを軽減するには、無駄な反応をしないことだと結論づけた。

無駄な反応しない方法を語る前になぜ反応してしまうか?をもう少し深掘りしてみる。
よくある悩みを列記してみる。
- 最近、周りの人にイラ立つことが増えてきた
- 身近な人のやることなすことが、やたら目についてしようがない
- 家族のことは昔から気に入らなかった
- それと同時に職場の同僚や友人にも不満が募ってきた
- 現在、かなりのストレス・欲求不満が溜まっている
このようなことがよくある悩みだ。これらを他人に相談すると必ず「気持ちはわかるけど、もっと楽に生きていいんじゃないの?」とか、「他に楽しいことを考えよう」などと答えが返ってくる。確かにそのとおりだが、自分はスッキリしない。だから再び腹が立ってイライラした状態に戻ってしまう。
こうしたとらえどころのない悩みや不満、物足りなさは人間が持つ”求める心”からくるのではないかと言われている。現代心理学の知識を借りると”求める心”は「7つの欲求」に分類できる。
- 生存欲(生きたい)
- 睡眠欲(眠りたい)
- 食欲(食べたい)
- 性欲(交わりたい)
- 怠惰欲(楽をしたい)
- 歓楽欲(感覚の快楽を味わいたい)
- 承認欲(認められたい)
これらの欲求を満たせば喜ぶ、叶わないと不満になる。まさに一喜一憂は心が反応していることになる。我々は人間なのでこれらの欲求を捨て去ることはできない。欲求サイクルを繰り返すのが人間の人生と言ってよい。生きている以上仕方のないことだ。
これらの欲求、すなわち”求める心”なのだが、仏教の世界では「渇愛」(かつあい)と表現する。「求め続けて、いつまでも渇いている、満たされない心」ということだ。言い方は何か悪いことを言っているかのようだが、そうではない。人間である以上仕方のないことだ。
仕方のないこと・・・つまり「心とは、そもそもそういうものだ」と理解することなのだそうだ。心とは求め続け、それゆえに渇き続けるものなんだと客観的に理解すること。
この求める心をいつも主観的に真に受けてしまってはいないか?
だから、「最近は虚しいな、昔はもっと楽しかった」と過去を憂いたり、「こんな仕事、やってられるか!」とイライラ不満に思ったりする場合もあるのではないだろうか。
”求める心”は悪いことばかりではない。成長しようと頑張れる効能もある。
仏教の始祖であるブッダが教えるのは、「求めても満たされるとは限らないのが、心である」、「反応してもしようがない」。そういう風に心は求め続けるものと客観的に理解すると、不思議な心境の変化が訪れる。
「このままではいけない」、「何かが足りない」という得体のしれない欠落感や焦り、心の渇きがおさまって、「人生とはそういうもの」ともっと大きな肯定が俯瞰してみれるようになる気がするのである。

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